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2010年3月16日
俳句
3月7日付けの辰野新聞(市民新聞)、「諏訪・上伊那の生き物語り」に、小野の小野章さんが文章を寄稿されていました。このコーナーは動物、虫、昆虫などいろんなものが取り上げられて、今回の56回目は小野さんの専門のヒメギフチョウでした。
「スプリング・エフェメラル」(春の短い命)と、この蝶やギフチョウ、ニリンソウやカタクリのことを呼ぶのだといいます。なんときれいな言葉なのでしょう。このひとことで、早春の山際の小さな花たち、ニリンソウだけでなくアズマイチゲや、色とりどりの小さなスミレたちを思い出して愛おしく思えます。
そしてウスバサイシン。もう8年前にもなるでしょうか、山仕事塾の朝の集合時間に、何気なく道際のウスバサイシンの葉をめくっていた私は、初めて小さな真珠のようなヒメギフチョウの卵が、8個ぐらいくっついて輝いているのを見つけたのです。「もしかしてあるかも」と思っていたわけだけれど、「あるわけないよね、こんな所に」とも思っていたから、その喜びはひとしおでした。
山仕事塾終了あと、夢中であたりの斜面にあるウスバサイシンをひっくり返して数えたら300個以上の卵が見つかりました。いつも田んぼの仕事で行き交いしている場所に、毎年こんなに美しいものたちが命をつないでいたのか、と深い喜びでいっぱいになりました。
小野さんの研究によると、春が暖かだった2002年に、例年よりとても早く雄の羽化が始まった。まだ緑が萌えるには早すぎる時期で、「食草も出ないのに気が早いヤツが出たんだろう」と思ったそうです。しかしその翌日ウスバサイシンの葉が地上に出始め、3日後雌が羽化を始め、その日に産卵が確認されたというのです。すべて5日間のうちに起きたのです。
「目も見えず動くこともできず、枯葉の上に転がっていた蛹からヒメギフチョウの雄が羽化するのと同時に、光も届かない土中から食草ウスバサイシンが葉を広げ、直後に雌が蛹から目覚め、交尾し、まだ若い食草に産卵する。毎年繰り返されるであろうこれら一連の営みは、よく考えてみれば、奇跡のように思える連係プレーです。」と。
早く産卵すれば、その幼虫は早く孵化し、食草を十分に摂ることができる。しかし早すぎる羽化は、産卵できず体力を消耗してしまう。その絶妙のタイミングで羽化と食草の萌芽が連携しているというのです。
山の木の種を採り、苗を育てるシードハンターの清水馨さんにも、同様の不思議な話をいくつも聞いたことがあります。氏は、木の種をリスなどが運んで埋めて忘れるので、新しいところに芽が出る。という一般の説明を間違っていると言っておられました。木の実は地面に落ちるとすぐに虫が入る。よしんば動物が運んで埋めたとしても、なぜかその木が育つ条件のないところには芽を出さない。太陽の光を受けることのできる、林縁や空間があるところに芽を出す。そういった場所を選んで、動物が種を埋め、その種には虫が入らないということが起こっているのではないか、と清水さんは言います。
また、藤は森林の荒廃につながるとして嫌がられるけれど、林が健康な時には地面に地下茎を這わせて、地表には少しばかりの葉っぱをところどころに出しているだけだ。手入れが滞り、立ち枯れや病気の木があると、藤はツルを伸ばしてその木に巻きつく。いうなれば掃除屋だ。また、自然植生の森を観察すると、まったく木が生えない草地がところどころに形成される。それが何の役割をしているのか、人間にはわかっていない。植林するときに、人はべったり全面に木を植えるが、それは間違っているのではないか。などなどおもしろい話がつぎつぎと。
そこには“裸地をなくし、植物そして最後は樹木で地表を覆う”という「自然の意志」が全てをコントロールし、精妙なバランスを保っている、と言うのです。そういう目で、先ほどのヒメギフの羽化の話を見ると、微生物や昆虫、動物も含めて緻密に繋がり、コントロールしているのであろう「自然の意志」の存在を、改めて感じさせられます。
以前は「自然の意志」などと聞いても、頭で理解していましたが、2年前に青森の六ヶ所村に行って身体で納得しました。六ヶ所村は原子力関係の核施設がいくつもある村です。海と湿地と森におおわれた本当に美しいところなのですが、その場にいるだけで苦しくなるような、深い痛みと悲しみの気に包まれていました。その場にいた皆が、自然が被っている苦しみをからだで感じて、つらくなってしまいました。確かに自然には意志も感情もあると、その時初めて感じたのでした。
虫を見つめ続ける。鳥を、木を見つめ続ける。畑の植物相を見つめ続ける。田んぼの動植物を見つめ続ける。そんな時間と思いを、そして時にはなにがしかの犠牲を払うことで、少しずつ「自然」が秘密を見せてくれるのでしょう。その秘密に私たちも生かされているはずだと思うのです。
ヒメギフチョウはなかなか見ることがなくて、小野さんが研究していたという場所を教えてもらって何度も見に行きましたが、遠くからふわふわ飛ぶのを見ただけでした。ところが昨年の春、山際の小さな田んぼの水路掃除に半日費やし、日影に座ってお茶を飲んでいた「こめはなや」スタッフの3人の前に、なんとヒメギフが優雅に現れ、目の前にとまって長いこと美しい姿を見せてくれたのです。その後も仕事をする私たちのそばに、しばらくふわりと飛んでくれていました。「よくやってるね」と山の神さまが喜んで、褒美をくれたように、私たちには思えました。その水路はかつて6枚の田んぼを潤わせていたのですが、今はすべて耕作放棄され、うちの田んぼ一枚になってしまって、私たちがあきらめたたら、小さな植物や生き物たちもそこで生存できなくなるのです。
人間も動物の端くれなのだから、きっとその「自然の意志」とどこかでつながっているのではないだろうか。だから自然の秘密が知りたい、見たい。つながりたい。なんだか願いはそれだけのような気するこの頃です。
なのになのに店で仕事をしている時間の方が長くてねえ。なんでしょうかねえ。ま、これも楽しいからいいんだけど。
最後につまんない落ちで申し訳ないけれど、去年小野さんの観察地の近くを通った時、明らかにプロの昆虫採集業者2人がネットを持っているのに出会いました。高く売れるからって貴重なスプリング・エフェメラルを、採ってイイのかああああ!!なおちゃんは怒ったぞ!しかしどうにもできなんだ。くやしい。人間てのはつまらんもんだ、とまたまた思ってしまった。
「スプリング・エフェメラル」(春の短い命)と、この蝶やギフチョウ、ニリンソウやカタクリのことを呼ぶのだといいます。なんときれいな言葉なのでしょう。このひとことで、早春の山際の小さな花たち、ニリンソウだけでなくアズマイチゲや、色とりどりの小さなスミレたちを思い出して愛おしく思えます。
そしてウスバサイシン。もう8年前にもなるでしょうか、山仕事塾の朝の集合時間に、何気なく道際のウスバサイシンの葉をめくっていた私は、初めて小さな真珠のようなヒメギフチョウの卵が、8個ぐらいくっついて輝いているのを見つけたのです。「もしかしてあるかも」と思っていたわけだけれど、「あるわけないよね、こんな所に」とも思っていたから、その喜びはひとしおでした。
山仕事塾終了あと、夢中であたりの斜面にあるウスバサイシンをひっくり返して数えたら300個以上の卵が見つかりました。いつも田んぼの仕事で行き交いしている場所に、毎年こんなに美しいものたちが命をつないでいたのか、と深い喜びでいっぱいになりました。
小野さんの研究によると、春が暖かだった2002年に、例年よりとても早く雄の羽化が始まった。まだ緑が萌えるには早すぎる時期で、「食草も出ないのに気が早いヤツが出たんだろう」と思ったそうです。しかしその翌日ウスバサイシンの葉が地上に出始め、3日後雌が羽化を始め、その日に産卵が確認されたというのです。すべて5日間のうちに起きたのです。
「目も見えず動くこともできず、枯葉の上に転がっていた蛹からヒメギフチョウの雄が羽化するのと同時に、光も届かない土中から食草ウスバサイシンが葉を広げ、直後に雌が蛹から目覚め、交尾し、まだ若い食草に産卵する。毎年繰り返されるであろうこれら一連の営みは、よく考えてみれば、奇跡のように思える連係プレーです。」と。
早く産卵すれば、その幼虫は早く孵化し、食草を十分に摂ることができる。しかし早すぎる羽化は、産卵できず体力を消耗してしまう。その絶妙のタイミングで羽化と食草の萌芽が連携しているというのです。
山の木の種を採り、苗を育てるシードハンターの清水馨さんにも、同様の不思議な話をいくつも聞いたことがあります。氏は、木の種をリスなどが運んで埋めて忘れるので、新しいところに芽が出る。という一般の説明を間違っていると言っておられました。木の実は地面に落ちるとすぐに虫が入る。よしんば動物が運んで埋めたとしても、なぜかその木が育つ条件のないところには芽を出さない。太陽の光を受けることのできる、林縁や空間があるところに芽を出す。そういった場所を選んで、動物が種を埋め、その種には虫が入らないということが起こっているのではないか、と清水さんは言います。
また、藤は森林の荒廃につながるとして嫌がられるけれど、林が健康な時には地面に地下茎を這わせて、地表には少しばかりの葉っぱをところどころに出しているだけだ。手入れが滞り、立ち枯れや病気の木があると、藤はツルを伸ばしてその木に巻きつく。いうなれば掃除屋だ。また、自然植生の森を観察すると、まったく木が生えない草地がところどころに形成される。それが何の役割をしているのか、人間にはわかっていない。植林するときに、人はべったり全面に木を植えるが、それは間違っているのではないか。などなどおもしろい話がつぎつぎと。
そこには“裸地をなくし、植物そして最後は樹木で地表を覆う”という「自然の意志」が全てをコントロールし、精妙なバランスを保っている、と言うのです。そういう目で、先ほどのヒメギフの羽化の話を見ると、微生物や昆虫、動物も含めて緻密に繋がり、コントロールしているのであろう「自然の意志」の存在を、改めて感じさせられます。
以前は「自然の意志」などと聞いても、頭で理解していましたが、2年前に青森の六ヶ所村に行って身体で納得しました。六ヶ所村は原子力関係の核施設がいくつもある村です。海と湿地と森におおわれた本当に美しいところなのですが、その場にいるだけで苦しくなるような、深い痛みと悲しみの気に包まれていました。その場にいた皆が、自然が被っている苦しみをからだで感じて、つらくなってしまいました。確かに自然には意志も感情もあると、その時初めて感じたのでした。
虫を見つめ続ける。鳥を、木を見つめ続ける。畑の植物相を見つめ続ける。田んぼの動植物を見つめ続ける。そんな時間と思いを、そして時にはなにがしかの犠牲を払うことで、少しずつ「自然」が秘密を見せてくれるのでしょう。その秘密に私たちも生かされているはずだと思うのです。
ヒメギフチョウはなかなか見ることがなくて、小野さんが研究していたという場所を教えてもらって何度も見に行きましたが、遠くからふわふわ飛ぶのを見ただけでした。ところが昨年の春、山際の小さな田んぼの水路掃除に半日費やし、日影に座ってお茶を飲んでいた「こめはなや」スタッフの3人の前に、なんとヒメギフが優雅に現れ、目の前にとまって長いこと美しい姿を見せてくれたのです。その後も仕事をする私たちのそばに、しばらくふわりと飛んでくれていました。「よくやってるね」と山の神さまが喜んで、褒美をくれたように、私たちには思えました。その水路はかつて6枚の田んぼを潤わせていたのですが、今はすべて耕作放棄され、うちの田んぼ一枚になってしまって、私たちがあきらめたたら、小さな植物や生き物たちもそこで生存できなくなるのです。
人間も動物の端くれなのだから、きっとその「自然の意志」とどこかでつながっているのではないだろうか。だから自然の秘密が知りたい、見たい。つながりたい。なんだか願いはそれだけのような気するこの頃です。
なのになのに店で仕事をしている時間の方が長くてねえ。なんでしょうかねえ。ま、これも楽しいからいいんだけど。
最後につまんない落ちで申し訳ないけれど、去年小野さんの観察地の近くを通った時、明らかにプロの昆虫採集業者2人がネットを持っているのに出会いました。高く売れるからって貴重なスプリング・エフェメラルを、採ってイイのかああああ!!なおちゃんは怒ったぞ!しかしどうにもできなんだ。くやしい。人間てのはつまらんもんだ、とまたまた思ってしまった。